「愛国心」「Citizen Nationalism」

サッカーW杯。今回の試合で「愛国心」「ナショナリズム」という言葉が多く使われた。「ナショナリズムない国でよかった」「愛国心はない」という意見が多い。
愛国心ファシズム軍国主義という連想をする人が多い。愛国心という言葉に扇動された無惨な敗戦国。
戦後「愛国心」という言葉を再構築しないままここまできた日本。結果、「愛国心」が否定的な意味でしか語られなくなり単に自分の国に対する「無関心さ」だけを助長してきただけにみえるのだが。戦争の記憶なんて引きずってるわけないだろう今の世代は。
俺の中で「愛国心」というのは、家族への、友人への、山河への、共同体への思いの外郭が愛国心だと思うわけ。無責任に自分の国に無関心ではいられない。

(velvetrose)
それは、「愛国心」というよりは、「郷土愛」に近いものだと思う。敗戦国の日本では、「愛国心」と「郷土愛」が、ゴッチャになってるのが私の感想。私にも「郷土愛」的なものは、当然あるが、政治的な意味での「愛国心」は無いなぁ。故に、国民は、無関心では、いけないんですけれどね。

言葉の解釈の問題でもあるね。ただ日本では「愛国心」という言葉に自然にアレルギーを起こさせる風土になっているね。「愛国心」は「郷土愛」であるというのが普通。その対象は政治も含まれる。政治を司っている体制への忠誠心というモノに置き換えられてしまってるのがアレルギーの原因なのかな。自分達が選挙を通して政治の運営を任せている制度への信用度の高さに比例するのか。

(velvetrose)
うん、言葉の解釈はあるな。故に、「言語」というものには表現の限界があると感じる。特に、私みたいな、五感で感じとろうとする者には、形而上的な限界を感じる。

>「愛国心」は「郷土愛」であるというのが普通。その対象は政治も含まれる。<勿論、そうではあるが、何か、「共同幻想的」に感じられる。むしろ、かつて、吉本隆明氏が指摘していた、「共同幻想的」を見抜く力の方が重要だと、私的には思える。故に、cinelli氏の発言には「国家主義的」な意味と捉えるが…。
私にとっては、未来的に観ると、もはや「国家」という概念自体に、あんまりリアリティーを感じ無い。国家、人種、宗教、等、多様なイデオロギーが世界にはある、が、私的には、そういうイデオロギーに拘泥している時代が続く限り、世界的な多様な問題は何も解決しないと思う。私は、もっと別なベクトル、例えば、未来的な方向、宇宙的な方向、霊的な方向、に興味が向いている。故に、「国家」などという狭いイデオロギーで、物事を捉えてはいない、というのが本音かな。

>政治を司っている体制への忠誠心というモノに置き換えられてしまってるのがアレルギーの原因なのかな。<おっしゃる通りだと思う。政治とは「諸刃の剣」なのだと思う。
大体、支配される側と支配する側が存在するという事実自体が、「国家的」ならしめているのであって、さらに言えば「前近代的な国家間の帝国主義なもの」が未だに、続いているという事とも感じる。

冷戦終結イデオロギーの対立が解消され「国家」の枠組みも変化の方向へ向かうかという新しい時代を予感していた。ところが時代は変化どころか新たな帝国の出現で・・。グローバル化という経済活動によるボーダーレスな搾取構造の拡大。それによるイデオロギーの対立の激化。
>未来的に観ると、もはや「国家」という概念自体に、あんまりリアリティーを感じ無い。<逆に増々「国家」が強権化するケースを予想をする。悪化する温暖化、環境汚染。20年後の国家間による資源獲得競争。アメリカ、EC,アジアのブロック化した経済圏間の対立。機能停止状態の国連や国際機関。南北間の格差の拡大。って暗いなぁ〜未来はw。
最悪のシナリオに対して何を?自分の立脚点(自分は愛国心)を新ためて自覚し判断するということが第一歩か。