東京大空襲 60周年

三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、
火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思い、早くも立迷ふ煙の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難しかるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火がありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃がしやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、余は風の方向よと火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもすこし知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮宅の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて來り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ、余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館樓上少からぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出勤し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台來りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためここにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、

永井荷風 『断腸亭日乗』 
東京大空襲のあった日の荷風の日誌を 余丁町散人の隠居小屋さんのところから。あの日の夜が冷静な視点で描写されている。今年は60周年ということでメディアで大きく取り上げられているのも一因だが、BLOGでもこの話題は多い。この「空襲」を多くの個人がこんなに関心を持って様々な思いを発信している状況なんて今まで無かったことだ。ネットがもたらしたものを実感。
あるBLOGで書かれていた空襲をうけている都市近郊の農村での印象。「山の向こうが真っ赤だった。」「あっちは大変だね〜。」戦時中でさえ被害を受けた人とは温度差がある。
「恐怖」は伝わりにくい。。最近起きたばかりのイラク戦争。もう昔話のように風化が始まっている。まして60年も時が経ってしまっている「空襲」なんてなおさらだ。

想像力を豊かにし「恐怖」を感じ伝えていかなければならない。普段通勤電車の中から見える川が60年前の今日、炭化した黒焦げの死体で埋め尽くされたことを。なぜそんな光景になってしまったのかを。

想像力を失わない為の「記憶の伝達」の大切さを思う。

焼失地図帖/コンサイス東京都35區·區分地圖帖